時系列でたどる前田光世の生涯と、ブラジリアン柔術の起源
ブラジリアン柔術の起源として前田光世の名は柔術愛好家の間で知られていますが、いつの時代にどんな活躍をしたのかまではあまり知られていません。そこで前田光世の活躍を、時系列で歴史と照らし合わせながら紹介したいと思います。
生い立ち
前田光世は1878年(明治11年)に青森県で生まれました。生まれる前年(明治10年)には、西南戦争という明治維新政府に対する最後の反乱がありました。
彼は小さな頃から力と腰が強く相撲が得意で、中学へ進学すると柔術部創設に関わっており、旧弘前藩の柔術(本覚克己流)師範に鍛えられていた可能性が語られています。その後、東京専門学校(のちの早稲田大学)で柔道部に入部。1897年(明治30年)に19歳で講道館へ入門。日本史でいうと日清戦争の3年後となります。
講道館の昇段審査(初段)では、前田光世のみ15人抜き(見事に達成!)を命じられたというエピソードもあり、柔道家としてかなりの実力者であったことがうかがえます。その後、1904年(明治37年)11月に柔道の国際的な普及のための派遣メンバーに選ばれて渡米。その時26歳でした。
日露戦争が勃発
前田光世が渡米した1904年(明治37年)は、日本史にすると日露戦争が勃発した年ということになります。ちなみにアメリカは、のちにヤンキースで活躍するベーブ・ルースが9歳の頃です。
そして同年11月は、日本陸軍の乃木希典が旅順攻略に大苦戦しているというタイミング。日本が総力戦で大国ロシアに挑んでいた頃、前田光世は柔道普及のためにアメリカへ船で渡っています。当時の日本人が海外へ渡るということは片道切符であり、もう日本には戻らないという不退転の決意を要するものでした。そのため前田は離婚して渡米しています。
柔道の普及活動
渡米後は柔道の強さを世界に示すためにアメリカ・イギリス・キューバ・メキシコ・ベルギー・アルゼンチン・フランス・ボリビアなど、約16カ国で異種格闘技戦をおこなって2000戦無敗。身長164cmで体重70kgという柔術であればフェザー級くらいの体格ながら圧倒的な強さでした。
日露戦争の勝利で日本文化、特に小が大を制する柔道に対しての関心が世界的に高まっており、「柔道=世界一の護身術」として、様々な土地で教えたり講演したり、試合をしたりしました。
数多く異種格闘技戦をこなすうちに前田は「飛び込んで組みつきさえすればすぐに勝てる。しかし柔道家にとって1番安全な方法は、まず当身を練習し、拳法家の突きを避けるくらいの腕前を磨き上げることだ」という持論から独自の戦術を編み出しており、打撃(当身)技の研究もしていました。
アメリカを離れて、イギリスで初めてボクサーと対戦する頃には顔とみぞおちをガードしながら身を屈めて素早く突進し、組技でテイクダウンしてから関節を極めるという、グレイシー柔術の原型が既にできあがっていました。
ブラジリアン柔術の起源
1915年(大正4年)にブラジルで「アカデミア・デ・コンデ・コマ」という道場を開いてブラジル人や日系移民に柔道を教えるようになりました。37歳でした。
前田が教えていた技は、当て身や蹴り、ナイフを持つ相手に対して腕を極める、投げ技でも肘打ちや脛・膝を蹴ってから投げる、投げたら即座に関節を極める、頚動脈を絞めるという、とても実戦的な護身術が中心でした。それは、現在のスポーツ的なルールの柔道とは違い、戦場の組討ちに由来する本来の柔術的要素が強く残っていた時代の柔道に近いものでした。
ブラジリアン柔術の祖となるカーロス・グレイシーは、この頃に柔道と出会います。その後、柔道を習ったグレイシーの兄弟が共同で「柔術アカデミー」という道場を開きました。これが、やがてグレイシー柔術となり、ブラジリアン柔術となって現在に至ります。
ちなみに、前田光世がブラジルに道場を開いた2年後の1917年(大正6年)、のちに試合でエリオ・グレイシーを圧倒する「鬼の木村」こと木村政彦が日本で生まれています。
木村は身長170cmながら体重が85kgあって、前田の2階級くらいの上の体格でした。
晩年
日露戦争では日本が勝利したものの、黄色人種が白色人種に勝利したことによって、圧倒的に人口が多い黄色人種が将来の西洋社会の脅威になるとの恐れから排日運動が世界で巻き起こり、日本移民は安い給料で雇われたり住むところを限定されるなどの差別を受け、日本に帰りたくても帰れず困窮していました。
そんな背景もあって日本移民から相談されることが多かった前田は、移民救済の地としてブラジルを選びました。ブラジル北西部のアマゾンには広大で未開の大地が広がっており、日本人差別もなくて、アマゾンの大自然に魅せられた前田は「アマゾン川流域開発に残る人生を賭けよう」と決心します。
しかし、アマゾンはヨーロッパやアメリカが入植しようとして失敗した過酷な土地であり、あわや前田も撤退というところまで追い詰められながらも粘り強く開墾に励んだのですが、持病の腎臓病が再発してしまい、自身が切り開いた土地の繁栄を見ぬまま1941年(昭和16年)にブラジルのベレンの自宅で死亡。63歳でした。ブラジルの雑誌によれば、最期に残した言葉は「日本の水が飲みたい。日本に帰りたい」だったそうです。
彼が他界してから5年後、日本人の持ち込んだ苗による胡椒の栽培に成功し、それが胡椒の相場高騰というかたちで空前の大景気が訪れて、多くの日系移民が救われました。そして講道館より七段を贈呈され、今でも史上最強の柔道家として前田光世を推す声は少なくありません。
まとめ
明治時代に海外派遣された柔道家がブラジルに残した技術は、ブラジルの地で独自に進化して、1990年代後半に日本人有志たちの手によって日本へ戻ってきました。今ではどこでも気軽にブラジリアン柔術を学べるほどに普及しています。このことを、柔術愛好家であればぜひ知っておいて欲しいなと思います。
最後に、前田光世がアマゾンの開墾で苦戦をするなか、友人へ送った手紙の一文を紹介します。
我々は競争の敗者になってはならぬ。それについては正しい手段が必要となる。勝負の真理は正道に従って進むことである。アマゾン進出もこの正道によらなければならぬ。
前田光世「1930年 - 友人に宛てた手紙より」
勝負の真理は、正道に従って進む。つまり、奇をてらわずに正当な道理で戦うということ。彼はなにごとも正しい行いであることを重要視していたのではないかと思います。また、「いつも心に危機感を持て」「なんでも採り入れろ。いつでも学ぶ立場でいろ」がモットーだったそうです。
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